今日のgood & new
昨日まで、読まれるブログを意識して、「です。ます。」調で文章を書いてみた。
でも、ぼくは商品の営業をしてアフィリエイトで稼ぐようなブログを作っていないので、やっぱり「だ。」調で書いて行きたいと思う。
ぼくのブログは商品に対する特記ブログではなく、雑記ブログだからだ。
やっぱりこっちのほうが筆が進みやすい。
今日は全体のミーティングがあった。
今日こそは大人しく人の話を聞いておこう、過激な発言はやめておこうと思ったけど、やっぱりやってしまった。
発言は、ただの自分の自慢話で、会議をまとめるような話し方でもなく、ただ批判するような内容になってしまった。
しばらく落ち込んだ。
そもそも、ミーティングで発言なんか、したくないんだ。
刺されるから、しょうがなく自分の意見を言うんだけど、熱くなって自分自慢をしてしまう。
ぼくはとても小心者なのだと思う。
わらしべ長者のように
今の仕事も心からやりたい仕事ではない。
ぼくは高校の時に、新宿の都庁を建てている真下から見て、建築に進もうと決意した。
1年浪人して、4年生の私立大学の建築学科に入学した。
建築学科は工学部の中でも、当時は人気が高かった。
他の学部よりも、課題が多く、毎日徹夜で図面を書いたり、模型を作ったりした。
そんなハードワークが嫌な人は、公務員やゼネコンなどの仕事を選んでいった。
ぼくは志だけは高かったので、大学を卒業してももっと建築の勉強をしたいと思って、大学院に進んだ。
しかし、大学の教授と馬が合わず、精神的に追い込まれ、1年留年してしまう。
今考えれば、はやりのアカハラだと思う。
3年でやっと大学院を卒業した時にはバブルが弾けて、就職先はなかった。
友達が言っていた小さい設計事務所にアルバイトで働かせてもらった。
当時、インターネットが流行り出して、ホームページを作ったり、住宅のコンペに参加したりと、不安定ながら自分の夢を捨てられなかった。
いよいよ、正社員にならないとまずいと思って、一級建築士の資格を取ろうと思った。
その事務所を辞めて、ある大手ゼネコンの設計部で派遣として働きながら、勉強をした。
当時、フリーターなんて言葉もなかったし、派遣社員で男性はぼくしかいなかった。
だから、社員からは重宝がられて、夜遅くまで働いた。
さすが大手のゼネコンは、不景気でも金払いが良く、深夜まで残業すれば、きちんと手当を割増してくれて、当時相当稼いだ。
今の貯金は、当時稼いだお金と言っても過言ではない。
働くのはいいけど、肝心の資格の勉強の時間が取れない。
仕事はおもしろかったけど、資格を取って正社員になろうという夢はとうのくばかりだ。
2年派遣社員をやって、これではダメだと思い、きっぱり仕事を辞めた。
資格の勉強をする予備校は昼間も教室を開放していた。
ぼくは朝から製図盤を持って予備校に行き、夕方まで資格の勉強をして帰ってきた。
学生というより、実家にいるニートに近かった。
それでも、半年で一級建築士をとって、就職活動をした。
思えば、この時が初めての就職活動だったかもしれない。
池袋のハローワークに行き、意匠設計の求人を探して、数社応募した。
運よく3社から内定をもらい、都内の中小ゼネコンに潜り込むことができた。
職歴もなく、経験もない30歳をよく採用されたと、今でも感謝している。
その中小ゼネコンは、アットホームでみんなが仲が良く何よりも設計を担当することができた。
そこには5年くらい勤めた。
住宅から工場、マンション、店舗に事務所、なんでも経験できたので、飽きなかった。
それでももっと大きな組織でもっと大きな建物を設計したいという思いが強くなり、初めての転職活動をした。
ここでもいくつか話をもらうことができたのだが、会社の規模が一番大きかった、今の会社を選んだ。
転職にはギリギリの35歳の時だ。
好きな仕事は恋愛に似ている
ここで、中高層建築の設計に携わることができた。
仕事はさらにハードになってきたが、自分が成長できる安心感があったので、仕事のしんどさはあまり感じなかった。
やっと、自分の夢が叶ったと思った、自分はわらしべ長者だと思ったのも束の間、リーマンショックでまたもや景気が悪くなる。
景気が悪くなると、会社の技術者は途端に金食い虫となり、営業に回された。
転職して2年だ。
営業先を回りながらも、ずっと元の設計に戻りたいと言いながら、働いていたのを覚えている。
元技術者が居酒屋で集まれば、愚痴ばかりだ。
もう限界と思った矢先に、別の部署で技術を探しているからどうだと声がかかった。
正直、うれしかった。
また、元の設計に戻れる。
移った先の部署はエリート集団だった。
自分に自信がある人ばかりだ。
とくに上司がこだわりの強い人で、徹底的にしごかれた。
それでも、やっぱり自分のやりたい仕事につけたことで、心の安定は保たれた。
しかし、その夢も儚く散りさる。
2年も経たないうちに、本社の新しい部門で立ち上げスタッフとして異動を命じられた。
ぼくは設計を離れたくないと主張したが、会社は社員の希望なんて聞いてくれない。
また、もろくもぼくの夢は消えていった。
やりたくない仕事をこなして、精神的にぎりぎりだったけれど、なぜか上司には評価された。
皮肉なもので、やりたい仕事はことごとく左遷され、やりたくない仕事で評価される。
気晴らしに、副業でもしてやりがいとお金をもうけることを目指そうと思ったこともあった。
今考えると、少しノイローゼだったと思う。
仕事は恋愛みたいなものだ。
好きな相手には受け入れられず、あまりタイプでない異性から思いの外、モテたりする。
一番大事なものは仕事ではない
そして、会社、仕事、自分の夢ばかりが頭を離れないことで、大切なものを失うことになる。
家族だ。
仕事がうまくいかない、学生の時からの夢も離れてしまったぼくは、家でも荒れていたんだと思う。
妻にもつらくあたってしまったかもしれない。
唯一の心の支えは、息子の存在だった。
息子と遊んでいる時だけは、自分の夢を忘れることができた、
子供ばかり構う中、夫婦の間には抑えきれない隙間ができてしまったと思う。
仕事とはなんだったのだろうか。
好きな仕事を追いかけて夢破れた今だからわかることは、一番大切なものは仕事ではない。
家族だったということだ。
仕事もお金も幸せにはなれない。
家族とのつながりが自分の幸せになるんだと、今では思うが、後の祭りだ。
失ってから、大切なものに気づく。
今一度、自分にとってなにが一番大切か、考えてもいいのではないだろうか。
⭐️ぼくはついている
⭐️なんとかなる
⭐️ありがとう