今日のgood & new
久しぶりの投稿。
仕事はなんとかかんとか、誤魔化しながら出社している。
生活も、毎日三食ご飯を食べ、寝る時間は7時間以上確保し、それ以外は家でゴロゴロしている。
そういえば、ギターのサークルに入ってみた。
ぼくは、アコースティックギターは20年くらい経験があるけど、エレキギターは経験がない。
ジモティでたまたま見つけた、エレキギターの参加者の募集にぽちっとしてみた。
周りは初心者が多いので、下手くそでも恥ずかしくない。
20代から30代が多いので、おじさんには肩身が狭い。
でも、マスクをしていると何歳だかわかんないから、素知らぬ顔をして参加している。
今日は、カウンセリングの日だった。
最近は少し、閉塞感を感じていて、希死念慮があることを伝えたら、3週間に1回話を聞いてもらうことになった。
妻との離婚話は膠着状態が続いている。
7月には子供の面会調査が終わって、8月には会えると思っていたのに、9月になっても裁判所から連絡が来ない。
妻には妻の事情があるのだろう。
彼女のやりたいようにやらせればいい。
自分でコントロールできない部分は、成り行きに任せるしかないのだ。
と、頭では理解できていても、気持ちがついていかない。
仕事や生活で心にダメージを受けるようなことが起きると、その傷が深く切り開く。
傷口が癒えるまでは、体にエネルギーがなくなり、インターネットで「早く死にたい」とか「絶望」とか検索してしまう。
その行為が、悪いと思っていても気持ちが安らぐ。
死にたいと思ってしまうことは不健全なことだと思うので、どうしたらいいか、カウンセラーに聞いてみた。
彼曰く、「死にたいと思って生活している人は、いっぱいいると思います」だった。
本当に死んではいけないし、死なない約束をカウンセラーとさせられたが、思ってしまうことは鵜不健全ではないし、みんなが思わない気持ちではない。
むしろ、その気持ちを封印してしまおうとした方が、自分自身にとって追い詰めてしまう。
自傷行為はよくないことだけど、ぼくは心の自傷行為をしているので、気持ちがよくわかる。
心療内科に行って、治療をすることで心の病気を治すことは悪いことではないが、「死にたい」という気持ちを持って生きて行ってもいいはずだ。
嫌なことは嫌だと言えるようになってきた
ぼくは自助グループに1年くらい通っていたが、教義がキリスト教の影響を受けて位いるので、話を聞いていても気持ち的に受け入れられなくなってきた。
神やハイヤーパワーをどうしても信じられない。
そして、神様のもと、仲間と共に支え合っていくというのも本当なのか、とうたがってしまう。
半年ぶりに顔を出した時、グループのリーダーが「お名前はなんですか」と尋ねられた。
半年で名前を忘れられるのは、仲間だと言えるのだろうか。
少し、さみしくなった。
だから、自助グループに行きたくなくなったので、今後もいかないだろう。
自然体で生きることが大切なんだ
素の自分のままで生きていくことが、強みを発揮できる近道だ。
自分を偽ったり、押さえ込んでしまうことの方が不健全だ。
いままで家族のためと自分に言い聞かせてきたけれど、もういいかなと思うことも悪くない。
日本人はこうすべきだ、こうしないといけないと考えすぎるので、心を壊してしまう。
心と身体が自然と感じることを、そのまま行動すればいい。
仏教では忍辱(にんにく)が大事で、つまり忍耐のことで、怒ったり、恨んだり、憎んだりしてはいけないとされている。
でも、人は怒ってしまうこともあるし、怒らないようにすることは本当にできることなのだろうか。
できたとしても、気持ちが病んでしまったら、元も子もない。
カウンセラー曰く、僕の強みは、人に言われたことを素直に受け入れるところだという。
逆に、弱みは、聞いたこと、読んだことを守らなければならないと信じ込んでしまうことだという。
その通りだと思う。
やってだめなら諦めて、次の新しいチャレンジに移ったほうがいい。
神様に禁じられていることはなにもない。
原爆を作ることや人を殺めてしまうことを、神様が禁止していたら、できないようにしているはずである。
もちろん、人を殺すことはやっていいことではない。
しかし、誰だって、縁があれば、人を殺してしまうかもしれないし、殺人犯も縁がなければ人を殺すようなことをしなかったかもしれない。
僕にとって今、大切なのは、自分の心と身体に聞いてあげることだ。
相変わらず、頭でっかちでもいい。
鎧を脱いで、自然体になることをこれから実行していきたい。
最後に、カウンセラーが最近見ているyoutubeを紹介してもらった。
アドラー哲学によった話が多いそうだけれど、今回のカウンセリングに似た内容だから聞いてみて!と勧められた。
通勤時間の楽しみがまたひとつ増えた。