(夫婦問題)食洗機が壊れてわかる妻の大切さ(別居してわかること)

今日のgood & new

最近、食洗機の調子が悪い。
すごい音がして動いている。
テレビの声が聞こえないくらいの音だ。
今まではここまで気になる大きい音はしていなかった。
それでも我慢していたら、ついに今日、食洗機の本体から警告音が鳴り始めた。
ランプが2つ点灯していて、洗うことを止めてしまった。
新築の時にもらった引き渡し書の中から、食洗機の説明書を引っ張ってきた。
中を読むと、どうやら排水が漏れている危険がある警告音らしい。
すぐに、説明書通りに食洗機のパネルをはがし、手を突っ込んでバルブを閉めた。
カスタマーズセンターに電話してみたが、夜だったので繋がらなかった。

便利なことって、自分の人生にどれくらい影響があるんだろうか

しょうがないので、食器を全てカウンターに置いて、一つ一つ手洗いをした。
久しぶりに触る洗剤とスポンジが懐かしかった。
一人暮らしの時も、賃貸マンションに住んでいたけど、置き型の食洗機を使っていたから、15年くらいお世話になっている。
洗剤が手につくと、いつも次の日は手がひび割れて、指先にささくれができて痛かった。
15年間食洗機を使い続けていると、自動でお皿が綺麗になることが当たり前に感じていた。
今回、食洗機が壊れて、やむなく自分でお皿を洗ってみると、今まで食洗機がどれだけ便利か、身に染みてわかるなーと思いながら、皿を片付けた。
便利なこととは自分にとって、なにがメリットなのか。
お皿を食洗機に入れてスイッチを押す時間と、自分の手でお皿を洗う時間は確かに数十分違う。
家族が増えれば、ますますその便利で得られる時間は増えていく。
じゃあ、その時間でぼくは何をしていただろうか。
タブレットでYouTubeを見たり、本を読んだり、ブログを書いたり・・・。
別になくなっても生活には支障のない時間ばかりだ。
せっかく電気代を使って増えた時間を、生活を豊かにするようなことはしていない気がする。
食洗機が壊れて不便になっても、ぼくの人生にはあまり影響がないのだ。
さぞかし、不便になったら、普段当たり前の便利さに気づいて、幸せを感じると思いきや、なければなくてもいいやという気持ちになってしまった。
食洗機はなくてはならないと盲信していたステータスだったのかもしれない。

家族はいて当たり前のものではなく、奇跡の時間を過ごすことだ

妻が出て行って、自分でやることが増えた。
家に帰ってきたら、ご飯があって、服を洗濯機に入れておけば、翌日にはリビングの隅に畳まれたぼくの衣服があった。
そんな便利な環境でも、なんでもっと夕食の品数がないんだよ、とか、服を畳んだらクローゼットに締まってくれよとまで、図々しくなっていた。
妻は、機会でもないしぼくの人生のステータスではない。
一人の人格を持った人間だ。
他人がぼくのためにやってくれたことと食洗機がお皿を洗っていたことは全然違うなと思った。
当たり前だと思ってはいけない、自分でもできると思ってはいけない、感謝をすべきことだったんだと思う。
しかし、いつも近くにいてくれた時には、そのありがたみがわからなかった。
いなくなってそのありがたさに気づくのは、食洗機とは断然違う。
なぜ、毎日家事をしてくれてありがとうと言えなかったんだろう。
なぜ、妻の存在そのもののありがたみを感じることができなかったんだろう。
いなくなってから、初めて気がつくことはあまりないのかもしれない。
ぼくの家族は、ステータスでもなく、いて当たり前のものでもなく、奇跡の時間だったんだと今では思う。